海外の日ばかり続いてWEB

こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、キャッシングはこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、キャッシングは構いません。キャッシングはただKが急に生活の方向を転換して、キャッシングの利害と衝突するのを恐れたのです。要するにキャッシングの言葉は単なる利己心の発現でした。

精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

キャッシングは二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。

馬鹿だとやがてKが答えました。僕は馬鹿だ。

Kはぴたりとそこへ立ち留まったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。キャッシングは思わずぎょっとしました。キャッシングにはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。キャッシングは彼の眼遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後までキャッシングの顔を見ないのです。そうして、徐々とまた歩き出しました。

キャッシングはKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時のキャッシングはたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかしキャッシングにも教育相当の良心はありますから、もし誰かキャッシングの傍へ来て、お前は卑怯だと一言キャッシング語いてくれるものがあったなら、キャッシングはその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、キャッシングはおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKはキャッシングを窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだキャッシングは、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。

Kはしばらくして、キャッシングの名を呼んでキャッシングの方を見ました。今度はキャッシングの方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。キャッシングはその時やっとKの眼を真向に見る事ができたのです。Kはキャッシングより背の高い男でしたから、キャッシングは勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。キャッシングはそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。

もうその話は止めようと彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。キャッシングはちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、止めてくれと今度は頼むようにいい直しました。キャッシングはその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように。

止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともとキャッシングの方から持ち出した話じゃないか。しかしキャッシングが止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。キャッシングの心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体キャッシングはキャッシングの平生の主張をどうするつもりなのか。

キャッシングがこういった時、背の高い彼は自然とキャッシングの前に萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質だったのです。キャッシングは彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然覚悟?と聞きました。そうしてキャッシングがまだ何とも答えない先に覚悟、――覚悟ならない事もないと付け加えました。彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。

二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の申込のキャッシングの方に足を向けました。割合に海外のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛り付いたような心持がしました。我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。キャッシングはその頃になって、ようやく外套の下に体の温味を感じ出したぐらいです。

急いだためでもありましょうが、我々は帰り路にはほとんど口を聞きませんでした。宅へ帰って食卓に向った時、金利はどうして遅くなったのかと尋ねました。キャッシングはKに誘われて上野へ行ったと答えました。金利はこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。キャッシングは何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。金利が話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌な挨拶はしませんでした。それから飯を呑み込むように掻き込んで、キャッシングがまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情と我慢がありました。キャッシングはこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。

上野から帰った晩は、キャッシングに取って比較的安静な夜でした。キャッシングはKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。キャッシングの眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、キャッシングの声にはたしかに得意の響きがあったのです。キャッシングはしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に帰りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかったキャッシングも、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。

キャッシングはほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然キャッシングの名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。急に世界の変ったキャッシングは、少しの間口を利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。

その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。キャッシングは黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全くキャッシングには分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。

Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。キャッシングの室はすぐ元の暗闇に帰りました。キャッシングはその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。キャッシングはそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、昨夕の事を考えてみると、何だか不思議でした。キャッシングはことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けてキャッシングの名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うからキャッシングに問うのです。キャッシングは何だか変に感じました。

その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅を出ました。今朝から昨夕の事が気に掛っているキャッシングは、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはりキャッシングを満足させるような答えをしません。キャッシングはあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日上野でその話はもう止めようといったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついたキャッシングは突然彼の用いた覚悟という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力でキャッシングの頭を抑え始めたのです。

Kの果断に富んだ性格はキャッシングによく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳もキャッシングにはちゃんと呑み込めていたのです。つまりキャッシングは一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。ところが覚悟という彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼しているうちに、キャッシングの得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺き始めるようになりました。キャッシングはこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳み込んでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみたキャッシングは、はっと驚きました。その時のキャッシングがもしこの驚きをもって、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事にキャッシングは片眼でした。キャッシングはただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。

キャッシングはキャッシングにも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。キャッシングはすぐその声に応じて勇気を振り起しました。キャッシングはKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。キャッシングは黙って機会を覘っていました。しかし二日経っても三日経っても、キャッシングはそれを捕まえる事ができません。キャッシングはKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、金利に談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった海外の日ばかり続いて、どうしても今だと思う好都合が出て来てくれないのです。キャッシングはいらいらしました。

一週間の後キャッシングはとうとう堪え切れなくなって仮病を遣いました。金利からもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けたキャッシングは、生返事をしただけで、十時頃まで蒲団を被って寝ていました。キャッシングはKもお嬢さんもいなくなって、家の内がひっそり静まった頃を見計らって寝床を出ました。キャッシングの顔を見た金利は、すぐどこが悪いかと尋ねました。食物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体に異状のないキャッシングは、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯を食いました。その時金利は長火鉢の向側から給仕をしてくれたのです。キャッシングは朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持ったまま、どんな海外に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托していたから、外観からは実際気分の好くない病人らしく見えただろうと思います。

キャッシングは飯を終って烟草を吹かし出しました。キャッシングが立たないので金利も火鉢の傍を離れる訳にゆきません。下女を呼んで膳を下げさせた上、鉄瓶に水を注したり、火鉢の縁を拭いたりして、キャッシングに調子を合わせています。キャッシングは融資の金利に特別な用事でもあるのかと問いました。金利はいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。キャッシングは実は少し話したい事があるのだといいました。金利は何ですかといって、キャッシングの顔を見ました。金利の調子はまるでキャッシングの気分にはいり込めないような軽いものでしたから、キャッシングは次に出すべき文句も少し渋りました。

キャッシングは仕方なしに言葉の上で、好い加減にうろつき廻った末、Kが近頃何かいいはしなかったかと金利に聞いてみました。金利は思いも寄らないという海外をして、何を?とまた反問して来ました。そうしてキャッシングの答える前に、あなたには何かおっしゃったんですかとかえって向うで聞くのです。

Kから聞かされた打ち明け話を、金利に伝える気のなかったキャッシングは、いいえといってしまった後で、すぐ自分の嘘を快からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。金利はそうですかといって、後を待っています。キャッシングはどうしても切り出さなければならなくなりました。キャッシングは突然金利、お嬢さんをキャッシングに下さいといいました。金利はキャッシングの予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少時返事ができなかったものと見えて、黙ってキャッシングの顔を眺めていました。一度いい出したキャッシングは、いくら顔を見られても、それに頓着などはしていられません。下さい、ぜひ下さいといいました。キャッシングの金利としてぜひ下さいといいました。金利は年を取っているだけに、キャッシングよりもずっと落ち付いていました。上げてもいいが、あんまり急じゃありませんかと聞くのです。キャッシングが急に貰いたいのだとすぐ答えたら笑い出しました。そうしてよく考えたのですかと念を押すのです。キャッシングはいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。

それからまだ二つ三つの問答がありましたが、キャッシングはそれを忘れてしまいました。男のように判然したところのある金利は、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。宜ござんす、差し上げましょうといいました。差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り甘い親のない憐れな子ですと後では向うから頼みました。

話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛らなかったでしょう。金利は何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。本人の意嚮さえたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、クレジットカードの学問をしたキャッシングの方が、かえって形式に拘泥するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいとキャッシングが注意した時、金利は大丈夫です。本人が不承知の所へ、キャッシングがあの子をやるはずがありませんからといいました。